前々から奴の噂は聞いていた。世の学生達をこれでもかと苦しめ、絶望の淵に追いやり、奈落の底へと突き落としてきた悪魔、"レポート"…。今まで一体何人の若者が、奴の毒牙にかかり、その儚い学生生活を散らせてきたことだろうか。だが俺は幸いにも、ここ三年ほど安全な場所(自室)に篭城し、あの怪物とは無縁に過ごしてきたので、数多の学生戦士たちのような悲劇的結末を迎えずに済んでいる。別の意味で悲劇的状況ではあるにしろ、ここ4年の学生生活において、"レポート"というものの脅威を肌で感じたことはほとんどなかったと言っていい。それは幸いなことだが、しかし、また、不幸なことでもあった。忘れていたのだ…。レポートというモンスターの存在を、完璧に忘れてしまっていたのだ…。
そして時は来た。2週間ほど前、平和ボケしたツラで俺が授業を受けていると、教授がこう告げたのだ。「ここの問題はレポートにします。」と…。レ…ポート? 初めは耳を疑った。Uポートか何かかと思った。しかしそれでは意味が通じない。しばし考えた後、ようやく「この問題を解いて提出しろ、ということだな」と理解できた。が、しかし、信じられない気持ちは依然として俺の中でくすぶり続けていた。その問題数が一つや二つではないからだ。俺の、真実だけを映すと定評のある、純粋で曇りのない瞳で、教授が指差している部分を何度も見直しているのだが、どこからどう見ても60問ほどある。ろ…ろく…? え…? 60? 六十? ろくじゅう? ロクジュウ? ROKU-JUU? ROCK-JUICE? 岩の…ジュース? 「み」などのひらがなを延々100個くらい書いていると、次第にそれが「み」以外の、理解不能な何かに思えてくるのと同じように、俺の中で「60」という記号が荒らしのごとく駆け巡り、果てに、その意味を失った。そして虚無からこの言葉が生まれた。「無理」。
提出はゴールデンウィーク明けの月曜ということだった。日付は名言されなかったが、それが即ち本日、5月10日のことであるというのは小学生にでも分かる事であろう。2週間前の俺は考えた。凄まじい量があるだけに、連休中にでもこつこつやって、地道に手間暇をかけて完成させるより他ない。しかも「汚い字だと読む気をなくすのでワープロで打って提出すること」などという、俺対策としか思えない足枷まで用意されてしまっているのだから、これはとにかく早めに取り掛からないと、痛い目を見るに違いない。間違っても、前日の夜に慌てて取り掛かるなどということのないようにしなければ!
だが当時の俺の思惑とは裏腹に、ゴールデンウィークは酒と麻雀と惰眠にまみれて幕を閉じた。正直なところそんな事になるんじゃないだろうかという予感はしていたけれど、まさかあそこまで酷い連休になろうとは…。自分のどうしようもなさにはもうウンザリ、というのが偽らざる本音である。しかし悔やんでばかりもいられない。自転車は、こがずにいればいずれ倒れてしまうのだ。見苦しくとも前進していくより他はないではないか。人生で一番まともなセリフで自らを奮い立たせ、土日の連休に全てを託す策に出た。俺は出来る…やれる男だ…案外頑張れば結構な力を出せちゃう人間だ…そうだ…行け…進め・・・レポートを終わらせるのだ…。
病的な言い聞かせと共に迎えた土曜日。この日に済ませなければ一気にジリ貧であるからして、なんとしても、最低半分ほどは済ませなければならないが、悲しいかな、俺の貴重な「頑張りエナジー」は、夜のバイトで底を突く結果となった。言い聞かせの言葉は空しく心に舞い散るばかり、心の底に積もる一方で、枯葉のほうが、焼き芋を焼けるだけまだましと思える程だ。結局、全てがどうでも良くなり、レポートの存在を忘れるために夜通しメッセに精を出す始末。クズが本気を出すとここまで酷いものなのだ。
そして、明けて日曜。この日に頑張らねば全ては終わるだろう。オールオーバー。このレポートをやるかやらないかで、今年1年の学生生活が、ひいては今後の人生までもが決まる、そんな気配すら漂う緊迫した情勢の中、真昼間に目覚めた俺だったが、圧倒的無力感に支配されながら、ただ、α波が出るような音楽を流し、布団にくるまるばかりだった。もう…ワシ…あかんわ…。PC の前と布団の間を往復しながら時間をドブに捨てる作業は、何も気持ちいいことはなく、ただただ辛い。辛いがしかし、ダラダラするのをやめてレポートをやり始める気には、全くならない…。せめてレポートを書くための WORD をインストールしようと思うのだけれど、4年前にパッケージで買ってそのままどっかにやってしまったので、探すのが面倒過ぎて動き出す気になれない。もう俺は駄目だ、分かっていたけれど駄目だ!
そうこうしているうちに晩飯の時間が来た。献立はトンカツ。思えはここがターニングポイントだった。正直元気が出た。トンカツうますぎ。ソースとからし、そしてロースの脂身が奏でる至福の三重奏。特に両端の小さめの切り身、あそこは油がぎっしりで、思い出すだけでよだれが出る。半分ほど食べて、少し口が脂っこくなったところでキャベツを掻き込む。しゃきしゃき感と少しの辛さ、甘みがたまらない。そしてまたカツ。どこの誰がこんなにうまいものを考えたのか。天才と言わざるを得ない。エネルギーと満足感を得た俺は、意気揚揚と自室に戻った。そう… WORD を探すのだ!
1分で見つかった。全く自分は何をしていたのかと思う。悩む前に行動しなければ何も始まらないのだ…。などと薄っぺらな歌の歌詞みたいなことを考えながらインストール。よしよし。俺ってもしかして真面目なんじゃなかろうか、という明らかに間違った自信が湧いてくる。普段の俺なら即効で打ち消し、調子に乗った自分を諌めるところだが、レポートは勢いで片付けるものであるからして、わざとその慢心に乗っかることにする。俺は出来る! やれる! 無敵! そして極めつけにのりのりの音楽をかける。ここで森田童子とかをかけたら全てが水の泡だ。うおー。やる気が出てきた。メッセでも色んな人にどうでもよさそうな「がんばれー」という励ましをもらい、空元気パワー MAX 充填完了。うおー。やってやる!
ついに俺は WORD を起動した。そして教科書を開き…ペンを取り…まずレポートの表紙を作り…そこで思考が停止した。何をすればいいのか、どう書けばいいのか全く分からない。時計を見るともう午後11時を回ろうかというところ。今から60問…? これは…果たして…。脳内を駆け巡る「無理だよ警報」を何とかかき消しつつ、「そもそも WORD でどうやって行列を書けばいいのか?」という極めて低次元な疑問を Google パワーで解決。おお…ついに…行列が書けた…。そして分かったことが一つ。とてもじゃないけど面倒過ぎて一問ずつ解いてられない! WORD の数式ツールの使いにくさがただごとじゃない。途中の式まで律儀に書いてたら本気で10時間くらい掛かってしまう。この俺にそんな気力があるわけがない…。もう諦めるか…? いやだめだ! せめて…せめて提出しなければ…。もう本気で崖っぷちなのだから…。でも真面目にやるのは面倒くさい…。ああ…。
そういった逡巡の果てに、俺は一つの作戦を立案した。その名も「スーパーコピペ大作戦」。最早言い訳のしようがないほどのクズ臭が漂ってくる作戦名だが、侮るなかれ、クズどころの騒ぎじゃない。今回のレポートの唯一の救いは、60問全てが全く同じ手法で解けるという点なので、それを利用し、省略できるところは全て省略した上で、途中の数式は全て文字において一般系にし、60問全てで全く同じ形になるようにしてやった! つまり俺がするべきことは、最初と最後の数字をいじることだけ! 天才! 楽勝! ただし注意すべき点として、計算の途中を省略しすぎ、という事が挙げられる。最初の式があったら、次の行ではいきなり答えが出ているのだ。えーっ!? いくらなんでも省略しすぎ。しかも驚くべきことに、答えは教科書に載っている。だからこのレポートは途中の式を書くことにこそ意義があるのだが、俺様はそんな事はお構いなしに、全て省略する。つまり教科書の数字の丸写しで終わる。自分の脳みそを使う余地、ゼロ。俺が教授だったら、そんなレポートはヤギに食わせた上でそのヤギのウンコを提出者に無理やり食わせるところだが、背に腹はかえられない。仕方がない。時間がない。誰も…俺を責めることは…できない…。
午前0時をまわったころ、ついに作戦は決行された。スーパーコピペ大作戦の効果は目覚ましく、まともにやってたら一問につき10分はかかっていたであろう作業が、ものの数分で片付けられていく。というか WORD の数式ツールが使いにくいせいで、コピペと数字改変だけなのに数分も取られるというのが信じられないが、イライラしていても始まらない。メッセなどでの交流などでストレス解消しつつ、黙々と作業を進めていく。というかレポートにかける時間とメッセなどでの交流の時間が1:1くらいだったので、効率が最低。自分がどこまで勉強に向いていないかを思い知らされた。
そして作業開始から5時間弱、午前4時の事だった。レポート、完成……!! 教授が見たら腰砕けになるであろう内容とはいえ、この上ない達成感であった。メッセなどでの「なんだよ出来たのかよ、つまんねー」という心無い野次すら今は心地よい。俺はやり遂げたのだ…! あとはこれを、明日の午前10時30分からの授業で、提出するだけ…! 安心しきった俺は、目覚ましを午前9時にセットし、心地よい疲労感と共に眠りに就いた…!
そして運命の朝、親の声に起こされ起床! 「メシは食うのか」との問いに、「明け方までレポートやってたから朝飯いらない、もう少し眠らせてくれ…」と寝ぼけながら答えると、親から、信じられない回答が…。「昼飯だよ。」え? ひる…え? ひるめ…え? ひるめし…? 昼飯ーーーーーッ!? えーーーーーっ!? 慌てて携帯を見ると…そこには…「12:27」という信じられない時刻が…! レポート出す予定だった授業、もう、終わってます!! お、おわ、おわって…終わったーーーーーーーーーー!!! 全てが終わったーーーーーー!!!! もう、もうワシだめや…生きていかれへん……。ゆうべの努力はなんだったんや…。ワシ、一体、何のために頑張ったんや…!? 冗談抜きに震える手足。アワワワ…。も、も、も、もうおしまいだーーー!!!!
絶望に明け暮れ、どうやって大学をサボるかを真剣に検討するも、先週完璧に大学をサボってしまった負い目と、家族の厳しい視線とに後押しされ、極めて後ろ向きな気持ちで大学に登校することになった。そうだ…遅刻したとはいえ…もしかしたら受け取ってくれるかもしれないし…ここは俺の根性の見せ所だ…。大学に到着するや否や端末室に直行。レポートを印刷し、ホッチキスで止めようとしたところ、またしてもアクシデント。あまりの分厚さにホッチキスが通らない…。死ぬほど手を抜いて30枚というのはどういう事なのだろうか。この課題を出した教授の良識を改めて疑う。仕方がないので生協でクリップを買い(26円の出費、教授払え)、どうしてレポートを出しそびれたのかについての言い訳を真剣に考えながら教授の元へ。
「あの、レポートを夜にやってたら、今日寝坊してしまって…それで出しそびれてしまったのですが…すみません…」人生史上に残る腰の引けた態度で教授にそう告げると、「ああ、レポート? あれ、来週までなんだけど」と、全く理解不能な返答が…!! お前連休明けの月曜だって言っただろ! 何考えてんだ! あまりのどんでん返しに戸惑っていると、「まあでも早い分にはいいよね。じゃあ受け取ります」などと教授が笑顔で言ってきた。今考えると、あのときの俺は正常な判断能力を失っていたとしか思えない。何も考えずに、あのハイパー手抜きコピペレポートを、あっさり手渡してしまった。「早いね、感心感心」といいながらレポートをめくり出す教授。その様子を見て俺の脳内警報が6億デシベルくらいの音量で鳴り響いた。「逃げろ! 危ない!」確かに! 挨拶もそこそこに教授の部屋を退出! そして自分の状況を冷静に判断してみたところ、「今日の授業に出てないことがばれ、コピペ丸出しのレポートを、死ぬほど目立つタイミングで提出してしまった」という、まるっきり救いようのない事態に陥っていることが判明した。どうやら神様っていないみたいだよ。もうおしまいです! ちなみに今は、それ以降の授業を全部すっぽかして漫画喫茶にいます! もうおしまいです!